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2003年2月10日 ◆ 「定石」 −講義−
今日の講義は定石。いわゆる「ツケノビ」定石をやった。
定石というと勘違いする人がいる。ある人と話をしたとき、私が囲碁をやっている話が出て「囲碁は定石があって、決まった布石ばかりで面白くないのでは?」ということを言われた。
確かに。囲碁には「定石」の他に「手筋」と呼ばれるものもあって、ある形になったときには「ふつうはこう打つもの」という石の配置はある。しかしその定石や手筋は何百(何千?)とあり、そしてその途中に「変化」もある。もちろん周囲の状況によって採用する定石も異なるし、変化の形も違う。すなわち、「囲碁の勝負とは定石の知識の多寡」では絶対にないのだ。
と、力んで書いてみたけれど、ふと「自分はいったいいくつの定石を知っているだろう?」と考えて、ほとんど知らないことに気付いた。さすがに基本中の基本となる定石(「三々定石」や「ツケノビ」など)は知っている。いくつか並べてみたことはあるけれど、そのほとんどを覚えていない。私のような初心者の場合、たくさんの定石を覚えるというよりも、「定石」の中に出てくる石の動き方をいくつか覚えていれば良いのだろうと思っている。講義では先生も同様のことをおっしゃっていた(と、解釈している)。
で、講義後の対局。
私自身、下手(ヘタではなく、シタテと読む)の方との対局も非常に面白く感じているんだけれど、講師の方々が気を遣ってくださる。今日も受講生が奇数だったこともあり私は手空き。またしても強敵(苦笑)・孔令文先生との対局となった。
対局は五子局。先生に九子で勝てれば初段だとのことで、「勝負をかける」のなら九子で打たせて頂いた方が良いのだろうとは思う。ただ九子になれば「発想」で勝負できるところがなくなり、局地戦を繰り返すだけで碁を終えることになる。私としてはそのような碁は楽しさ半減だと思っているので、無理に五子局でお願いしているわけだ。ちなみに五子局で勝てれば4、5段だそうだ(笑)。
で、結果はもちろん負け。「まあ前田さん、1級くらいの実力といったところですか」。うん、それはそれで良いんだけれど、途中から自分が何をしているのかわからなくなって、ちょっと自分にむかつく碁になってしまった。勝敗に拘るわけでもなく、だからと言って互先での手筋を教わろうというわけでもない。そういう状況に自ら持って行って教えを請うているわけだけれど、その中途半端な状況に自ら混乱し、意味のない手を連打した。
終局後の検討でも、私の無意味な手に対するお叱り連発。「ええ、そこは確かにそうでした。ただ、私の狙いもあったんです、一応…」。「そう、その狙いはあったでしょうけれど、狙いが間違ってますね」(爆)。
私の場合。上手の人に置き石させてもらって碁を覚えてきたわけじゃない。だから置き石したときの戦い方がよくわかっていないということはある。しかしもうちょっと五子には五子の戦い方があるはず。囲碁関係の本のタイトルにもあるけれど、「下手の心構え」ができていない自分を恥じることになる碁だった。
で、孔令文先生にも「守りのタイミング」を指摘された日。家に戻って、NHKの囲碁講座をビデオで見た。番組では「強くなりかけた人に多いんですが、強気強気で大けがをするケースがあるんですね」と言っていた。
そう、まさにその通り。この日の孔令文先生との対局でも守りのタイミングを逸することが最近の私にはある。通信対局でも、強気強気で大けがをしてしまうことが多い。
シンクロニシティじゃないけれど、この日一日、ずっと「お前は棋理がわかっていない」と言われ続けたような感じ。本はよく読み、下手の人には自ら棋理を説くようなこともある私だが、自ら盤面に向かって勝負しているときには、その冷静さを欠いてしまうことがあるのだろう。このことを肝に銘じ、「棋理に応じて」とボヤきながら碁を打つことにしてみようか。
と。なんとなく浮き沈みの激しい私ではあるけれど。それを見習ってか否か、弟子の浮き沈みも激しい。先日私に惨敗して、さらに局後の検討で「ここら辺の君の手。何をやっているのか全く理解できなかった」などと言われ泣きそうになっていた弟子。さらにその翌日にも私に惨敗し「じゃあ並べてみようか」の私の言葉に「いいですっ」と検討拒否までした弟子。
この日は、つい先日二子置かせてもらって打った人と互先。二敗だったものの、盤面では4目勝ち、2目負けの僅差だったとのこと。
弟子曰く。
「私、もちろん良い師匠に恵まれているからなんですけど、強くなっています」。
わはは。勝ち碁増えて礼節を知る。そう、君は強くなってる。だから「どうも調子が悪いかな」というときにも、あまり不機嫌にならないでくれ。怖いから>弟子。
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